お釈迦さまの晩年

秋ですね、朝のホットコーヒーがさらに美味しく感じる気温になりました。

今回はお釈迦さまの晩年のお言葉について考えていきたいと思います。

自灯明、法灯明

お釈迦さまが35歳で成道(覚った)し、80歳を迎えようとしておりました。その間、お釈迦さまは広く教えを伝え、人々の安寧を望み、説法の旅をしていました。

お釈迦さまの身体に異変が起きました。死を思わせるほどの激痛がやってきたのです。お釈迦さまは耐え忍んだものの、以前までの元気はなく、横になっていました。ずっと共にしていた弟子のアーナンダはお釈迦さまが苦しんでいる姿や亡くなってしまうのではと思い、心配していました。それを病気に倒れながらも、察したお釈迦さまはアーナンダに次のように語ります。

それゆえ、アーナンダよ、比丘¹(びく)は自(みずか)らを洲(しま)とし、自らを拠りどころとして、他をよりどころとせず、法を洲とし、法を拠りどころとして、他をよりどころとせずに、住しなさい。

(パーリ長部「大般涅槃経」)

¹比丘(びく)・・・修行者

ここで言われる「自ら=自己」というのは、ありとあらゆるものから生かされている自己であり、わがままであれも欲しいこれも欲しい、愛されたいなどのような我見や我執、渇愛に満ちた自己ではありません。また「法」とは、この世の中の理でもある無常や苦、縁起のことを指します。さらにそれらを「洲(しま)=指針」とすることをお釈迦さまは伝えました。お釈迦さまは弟子たちに自分がこの世からいなくなったとしても、「自己」を拠りどころとし、「法」を拠りどころとして修行生活を励むのであれば、きっと覚りへと辿り着くだろうと伝えたかったのです。

現代に生きる我々にとっても同様に言えることがあると思っております。大切な方が亡くなられたとき、大切な方のご葬儀・ご供養はもちろんのこと、その方の人生の中で体現していたことを継承することが「法を洲とし、法を拠りどころとして」生きることなのではないかと思います。たとえば、生前に自分よりも周りの方々に無償の愛をもち、接していたことなどを継いでいく。多少拡大解釈になるかと思いますが、それらを拠りどころとし、指針して生きていくことが大切な方のご供養にもつながると考えております。

 

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