インド〜仏跡を訪ねる〜vol.5

5月に入り、日が長くなったと実感しています。日が長いとなぜかお得な気分に感じられるのは私だけでしょうか。

今回で「インド旅〜仏跡を訪ねる〜」はまとめといたします。

釈尊涅槃の地

お釈迦さまが80歳になって、亡くなった地でありますクシナガラ。

死因は食中毒だと伝わっています。鍛冶屋のチュンダから食事の布施をいただいたお釈迦さまですが、そこで出された「スーカラ・マッダヴァ」という食べ物を食べたのがお釈迦さまの最後の食事になりました。それが食中毒を引き起こし、お釈迦さまは亡くなるのです。
この「スーカラ・マッダヴァ」が、どんな食事であったのかは、実ははっきりしていません。「スーカラ」は豚で「マッダヴァ」は「柔らかい」という意味になり、無理に訳せば「柔らか豚」となりますが、これが何を示しているのかについては諸説あります。そのうちの一つは豚肉説です。たしかに火をよく通さない豚肉を食べれば食中毒を起こすでしょう。もう一つの有力な説は、毒キノコです。豚は三大珍味で知られるトリュフというキノコを探すことでも知られていることから、なにかそういった類のキノコの名前だったのかもしれません。余談ですが、豚は見つけて、思わずキノコを食べることから犬も活躍していたようです。いずれにせよ、ブッダが食中毒を起こし、お腹をこわして亡くなったことだけは伝わっています。
ここで前者の説ですと、「お坊さんが豚肉を食べている!?」と疑問を抱く方がいらっしゃるかもしれませんが、もともと仏教は肉食を禁じていません。肉を食べなくなったのは、時代を経て、大乗仏教になってからの話で、ブッダの時代は肉でも魚でも、布施していただいた食事はなんでも有り難くいただきました。今でも、お釈迦さまの仏教を受け継ぐ南方仏教国のお坊さんたちは普通に肉食しています。「仏教は精進料理のみ。肉食しない」というのは、仏教世界のごく一部でしか通用しない特殊なケースなのです。

また釈尊の生まれ育った故郷ルンビニはクシナガラの北側に位置し、「両親に足を向ける事はできない」との意味から「頭を北にして」涅槃に入られたようです。これが「北枕」の習慣の始まりだといわれます。

白い建物が涅槃堂です。涅槃堂の前には沙羅双樹の木が2本あります。お釈迦さまが亡くなられた姿を表した涅槃図には、沙羅双樹の木が8本あります。8本のうち4本は色が変色し、枯れてしまっています。これは、お釈迦様が亡くなられて、樹木でさえ悲しみのあまり、葉を枯らしてしまったと一説には言われています。また残りの青々とした沙羅双樹はお釈迦様の教えは色あせることがない永久的な真理を表していると言われています。

涅槃堂の中には、お釈迦さまの涅槃像が安置されています。ここで懇ろに手を合わせ、法要を行いました。

釈尊降誕の地

お釈迦さま生まれになったルンビニへ向かいました。

インドからネパールに向かうため、クシナガラを出発し、バスに揺られること5時間。さらに国境での手続きが2時間30分。100人近く並んでいる受付で対応しているスタッフは2人…。(がんばれ2人!)

その道中で笑顔が素敵なインドの方々と表情とボディーランゲージのみでのコミュニケーション。心は通い合ったと信じて、ネパールへ。

ルンビニへ到着し、迎えてくれたのはお猿さんの夫婦。軽く会釈をして、ルンビニへ。

お釈迦さまが、お生まれになったのは今から約2500年前のことです。お釈迦さまのお母さまのマヤ夫人は、出産のためお里に帰る途中、ルンビニー園という花園でお休みになりました。マヤ夫人が木の枝に手を伸ばした時、右の脇からお釈迦さまが誕生されました。

お釈迦さまは、7歩あるき、右手で天を、左手で地を指さし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」(天にも地にもただわれ独り尊し) と言われたと伝えられています。その故事からルンビニには写真のような像があります。

 

お釈迦さまが誕生した場所といわれる所に建てられたマヤ・デヴィ寺院があります。寺院の中には、1996年に発掘されたお釈迦さまがこの地で誕生したことを記すマーカーストーンやマヤ夫人の像、紀元前3~7世紀ごろのものと考えられるレンガ造りの礎石を見ることができます。寺院内部は写真NGだったため、お見せすることができません。

インド〜仏跡を訪ねて〜を通じて

旅を通じて、外国の文化や人、言語に触れる機会はとても貴重で興味関心の幅を広げてくれているように思います。今回は仏教の誕生の地インドでお釈迦さまの足跡を辿る旅でしたが、紙面から出来る知識理解とは全く別の学びを現地から得ることができました。まだ見たことのないもの、まだ触れたことないものに飛び込み、その興味関心の種をこれから育てていきたいと思います。

約2500年の時を越えて、仏教という信仰にとどまらない「生き方」を示してくれる教え。その源流に訪れ、改めて仏教ならびに現在、お預かりしているお寺の護持、檀家さんの心の安寧の一助を担えるように精進していきたいと思いました。