現在の別所山満福寺は、九州豊後国(大分県)の緒方三郎惟義により創建されました。惟義は九州の豪族で、源平合戦には義経の幕下となり、屋島壇の浦の合戦では大きな戦功をあげました。義経は兄の頼朝と不和となり、争いを避けるべく都落ちして九州に逃れようとしましたが、暴風雨のため散り散りとなり、平泉の地に逃れました。文治5(1189)年、頼朝は大軍をもって平泉藤原氏征伐の軍を進め、高舘の藤原氏は滅亡し、義経は妻子とともに自害したと伝えられています。惟義は高館滅亡後、出羽国羽黒山に入峰、建久2(1192)年に修験山伏となってこの地に下向、先の屋島壇の浦の合戦で戦歿した部下将兵の供養のため、松崎片浜の地に一寺を建立し、山号を鶴寿山、寺号を満福寺と称しました。本尊は阿弥陀如来。宗旨は天台宗でした。建立されておよそ270年無住でありましたが、新月の寶鏡寺5世萃蕚道春和尚が、片浜にある満福寺の風光明媚なるを愛して、寛正3(1462)年8月19日に再興し開山しました。その際に、宗派を曹洞宗に改宗しました。元禄2(1689)年に本尊を延命地蔵尊に改めて奉り、現在の満福寺の礎となりました。