娘の言葉

最近、焼けるような日差しの中に踏み込む勇気が必要になってきていますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
お寺の中を風がビューと駆け抜けると「チリンチリーン」と涼しげな音が唯一の癒しになっております。
優しさど真ん中
娘が2歳の頃に2人で気仙沼の海岸をドライブしに行った時のお話です。
私が「なんと…今日は海に行きたいと思いまーす!」と伝えると、内容よりも伝え方が良かったのか間髪入れずに「イェーイ!」と無邪気にはしゃぐ娘。
そんな娘と向かう車中、「海ってどのくらい大きいのかな」や「鳥さんはどのくらいいるのかな」など、私もわからない議題について2人で話し合い、混迷を極めたところで海に到着しました。
砂浜を果てのない砂場と認識し、駆け回る娘。引いては返す波に少し怖さを感じながらも、海さんに初めましてのご挨拶。
ひと通り、遊び終わって車に戻ると、私が握っていたスマートフォンが手から滑り落ちてしまいました。「あっ!」という言葉と同じくして、地面に打ちつけられました。
案の定、画面は細かなヒビが蜘蛛の巣のように広がっていました。
落ち込んだ私を見て、娘が「どしたの?」と聞いてきました。
私は「見て、携帯落としたら、こんなになっちゃった」と蜘蛛の巣スマートフォンを見せました。
すると、娘は「そっかそっか〜。おうちにかえったら、バンソウコウ貼ろうね」と心配そうに伝えてくれました。
その瞬間は思わず笑ってしまいましたが、娘の言葉は自分自身ができる最善の解決策を教えてくれていたのです。
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施すなり
道元禅師が書かれた『正法眼蔵』に「菩提薩埵四摂法」の巻の中に「愛語」について説かれています。
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」
「愛語」という優しく思いやりのある言葉とは、まず全ての人やものにに対して、慈しむ気持ちをもつこと。そこから優しい言葉を思い、伝えられることができるというのです。
あれはだめ!これは違う!俺が正解なんだ!というような思いでは、「愛語」とはほど遠いものになります。
「ありがとう」「おかげさま」「元気?」といった思いが「愛語」として、言葉となり周りを明るくするのではないでしょうか。