利他について

毎日1回は必ず「暑い…」と言っています。今日たまたま隣の友人がそれを聞き、すぐに私に「寒い、寒いよ」とおまじないの如く言ってもらい、気持ち涼しくなった気がしました。

今回は他者のための行為「利他」についてになります。

利他とは?

まずはじめに、簡単にインターネットで検索してみた結果

り‐た【利他】
1 他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと。
2 仏語。人々に功徳・利益りやくを施して救済すること。特に、阿弥陀仏の救いの働きをいう。

(https://kotobank.jp/word/利他-148854)最終閲覧日 2022/7/1

1で説明される「自分のことよりも他人の幸福を願うこと」が行動というよりも概念的な表記がされ、実践の「行」となれば違和感を覚えるかもしれないが、「祈り」あるいは「願い」に類するもので説明できる。そして、2でいわれている「特に、阿弥陀仏の救いの働きをいう」というのは利他がとりわけ浄土宗の阿弥陀さまの働きを表しているかは少々を疑問を感じる。

道元禅師および禅僧が「利他」を語っているものを引用して、利他の意味や問題などをみていきたい。

菩提心(ぼだいしん)をおこすというは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生(いっさいしゅじょう)をわたさんと発願(ほつがん)し、いとなむなり。

道元 『正法眼蔵』発菩提心

【私訳】

仏道の志をおこすということは、自ら先に安らぎの境地に向かうのではなく、ありとあらゆる他者を安らぎに到達させたいと願い勤めることである。

ここでは直接的に「利他」という言葉が見受けられないが、利他の意味に即していると考えられる。

「他者」という言葉の意味を奈良が指摘している。

利他行とはたしかに他者のためになる行為ということです。しかし、例えば西欧的な「博愛」などとは区別して考える必要があるのですね。「博愛」とは、基本的には、社会的弱者を助けるという意味が強いものです。しかし、仏教の利他行とは、たしかに社会的行為に連なるものではありますが、その根底には一切の生きとし生きるものへの限りない慈悲の心が横たわっています。

奈良康明 『説戒-永平寺西堂老師が語る仏教徒の心得-』

他者というのはこの人やこの地域の人といった限定的なものではなく、「一切の生きとし生きるものへ」というフレームなのである。フレームという表現も適さないのかも知れない。

しかし、この利他も「病的な利他性」という言葉で自身を苦しめる要因にもなってしまことも指摘されている。

私心のない善意から生じた利他性が、義務感や義理や恐れになってしまったり、助けることに疲れ切ったりすると、人は否定的な感情に激しく揺さぶられることがあります。・・中略・・病的な利他性の身近な例は、共依存です。共依存状態に陥った人は、自分自身が損害を被るにもかかわらず、他の人の求めに応じることに全力を注ぎ、その過程で、しばしば依存的行動を助長してしまうこともあります。

ジョアン・ハリファックス 『Compassion(コンパッション)状況にのみこまれずに、本当に必要な変容を導く、「共にいる」力』

利他が必ずしもポジティブなはたらきがあるかといえば、一概には言えないが、仏教という立場で「病的な利他性」をみると、そこには利他とは言えない現状がある。

また利他という言葉を扱うと、慈悲という言葉も触れざる得ない関係にある。慈悲については次回以降に書き進めていきたい。

 

 

最後は利他についての個人的に好きな奈良先生の引用で締めたい。

道元禅師は「自己」と「他己」という言葉をよく使われるのですが、自と他が「己」を媒介として通底しています。自己が拡大され、深化されると、他者への思いが深まり慈悲の心が生じてきます。

奈良康明 『説戒-永平寺西堂老師が語る仏教徒の心得-』

 

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