お釈迦様の声?雑音?

「今日も雨か!」「また赤信号か!」などと口に出し、あるいは心の中で思ったことはありませんか。私も些細なことで、小さなイライラを募らせている時があります。
以前にもお伝えいたしましたが、今年、私は苦手だったことに挑戦しようと思い立ち、英語の勉強を始めました。仕事と家事育児の合間に英単語を暗記します。しかし、その貴重な時間の最中に、救急車のサイレン。お次はパトカーのサイレン。気にしないようにしようと思っても、結局、単語の一つも頭に入っていません。無駄に過ぎていく時間に、イライラとやるせない気持ちが混ざり合ったなんとも表現し難い感情になりました。
道元禅師が詠まれた和歌
峰の色 谷の響きも皆(みな)ながら 我(わが)釈迦牟尼の声と姿と
『正法眼蔵』「山水経」
この和歌は、私たちが眺めている山々、そして、心地よい川のせせらぎの音といった大自然がお釈迦様の声と姿であることを表現しています。そのお釈迦様の声と姿というのは草花や木、鳥や魚などありとあらゆるもの、そのものの働きのことです。簡単に言えば、花は咲き、鳥は飛び、魚は泳ぐといったありのままの働きです。
雑音としているのは自分
現代に生きる私たちは永平寺のような伽藍に住み、かつ大自然に囲まれた山奥に住んでいるわけではありません。それでは、お釈迦様の声と姿は触れられないのでしょうか。いいえ、違います。天気が雨であっても、信号が赤であっても、サイレンの音が鳴っていても、それらはそれぞれに備わっっているものであり、ありのままの働きなのです。ついそこに自分の気持ちを乗せてしまい、イライラしてしまうこともあります。その時には道元禅師の先ほどの和歌を思い出しております。