三宝

昨日、小学校の担任だった先生から「中途半端な蝋燭や使わなくなった蝋燭あったら、欲しいです。小学校のクラブ活動でキャンドル作りをしたいと思います」とお話をいただきました。SDGsの観点から資源を再利用しようという試みだそうです。その先生は私が小学校の時から学校内だけではなく、学校外のつながりをとても大切にされる良い意味でアウトローな方でした。振り返れば、学校内ではつながることのない、ある種異質なつながりが大きな学びになっていたのだと思いました。

ということで、今回はしっかりめに仏教についてお話します。

「三宝(さんぼう)」

先祖供養や葬儀の際、「南無釈迦牟尼仏」とお唱えしたことはありませんか。

これは「仏教を伝えて下さったお釈迦様を敬い、その教えに従ってまいります」と、手を合わせて声に出す。そうすることで一層その思いを確かにするためにお唱えするものです。

そこで今回は、お釈迦様のお覚りが契機となり、今に伝わる仏教が成立するために欠かすことの出来なかった「仏・法・僧」の「三宝」についてお話をしたいと思います。三つの宝と書いて「三宝」と読みますが、そもそも宝とは何でしょう?世の中には様々な宝がありますが、誰にとっても間違いなく「宝」と言えるものを考えてみますと「それを手に入れたら誰もが必ず幸せになることが出来る」というもの、それこそが普遍の宝と言えると思います。「仏・法・僧」を三宝と言うのは、そういう宝のことです。

冒頭で「仏教が成立するに欠かすことの出来なかった仏・法・僧の三宝」と申し上げましたが、お釈迦様が真理を覚られ仏陀・覚者になられ「仏宝」、宝たる仏が現れました。しかし、お釈迦様がその覚られた内容をお説きにならなければ、個人の身の上に起きたことで終わっていたのです。お釈迦様が、覚りの坐より立たれて、五比丘(ごびく)と伝えられる元の修行仲間にお覚りの内容を説かれた時、教えとしての法宝が現れました。更に、五比丘はお釈迦様の教えを理解し、お釈迦様の教えに従い共に修行されました。修行を共にする仲間・僧宝の誕生です。仏・法・僧の三宝が調った時が仏教の誕生だったのです。

一体三宝・現前三宝・住持三宝

お釈迦様後、在世の時の三宝を現前三宝と言います。過去、現実に現れた三宝という意味です。三宝には只今の現前三宝の他に、一体三宝・住持三宝で、三種の功徳、つまりはたらきがあります。その三宝の三種のはたらきについて簡単に説明させて頂きます。

一つ目は、最高の人格と普遍的な真理が自らの上に一体となって融合する功徳の一体三宝。二つ目は、実際にお釈迦様がおられ、そのお釈迦様が自らお説きになられた教え、そしてその教えを聞き修行に励まれた僧侶達、この三宝が現れなかったら、仏教は今に伝わっていないのです。この功徳はたらきを現前三宝と言い、先程もお話致しました。三つ目は、仏様のお姿を表現した仏像や絵画、又は「南無釈迦牟尼仏」と揮毫された掛け軸や額装されたもの、曼荼羅なども仏宝、教えや戒め、教えを論考した内容などを書き留めた経典や仏典が法宝、苦しみのよから人々を救うべく学び修行する僧侶や、教えを信じ共に行じる人々が僧宝、過去から現在、そして未来へと仏教を護持し継承してゆく功徳の三宝が住持三宝です。

帰依=南無

仏教徒とは、この三種の三宝の功徳を信じ、そこに身心を投げ入れゆくもののことです。その投げ入れ任せ切ることを「帰依」と言い、インドの言葉で「南無」と言います。「南無釈迦牟尼仏・南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」等々の南無です。仏教徒とは、三宝に南無す人です。三宝に南無しますから「南無三」。少し古い表現ですが巷では、一大事が起きたり、願い事を叶えようと祈るとき、あるいは渾身の力を振り絞る時「南無三」と言います。あれは「南無三宝」のことです。

ただこの「南無三」には、違和感を感じます。何故なら、世間で口にされる南無三は、不幸を回避しようとする時、都合の良いように願いを叶えようとする時など、自分の為に使われるからです。本当の南無、つまり帰依とは、「帰投依伏(きとうえぶく)」と言い、先程同様に三宝に自らを投げ入れ任せ切ってゆく、無私無欲でなければならないからです。

永平寺を開かれた道元禅師は『正法眼蔵』の「生死(しょうじ)」の巻にこのように書かれました。

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる

『正法眼蔵』「生死」

自我欲望の自己の計らいをやめて、仏法僧の三宝を中心とする仏の世界に身も心も投げ込み任せ切ってゆく時に、四苦八苦の苦しみから解放され、自ずと心安らかな仏になってゆく、と書かれています。

最後に…。

今回は仏教について大真面目に。というのも、このホームページで仏教の歴史や思想に触れられる機会があればと思い、つらつらと書き綴りました。

「仏教」は人によっては、哲学や信仰、生き方、行事など様々に捉えられている思います。仏教に限らず、様々な宗教の思想や歴史、信仰について学ぶことは大変有意義なことだと思いますので、そのきっかけに活用していただければ幸いです。

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