言葉になる前の”はっ”!

先日、満福寺のインスタグラムに境内の写真を投稿したところ、このようなコメントをいただきました。
お寺さんって、春夏秋冬どの季節で切り取っても絵になるし、
なぜか泣きたくなります。
それは悲しさの涙じゃなくて、ノスタルジーというかエモいというか…
この感情の種類が分からないのですが
とても素敵な感想で、しばらく読み返してしまいました。
私はこう返信しました。
「その感情は言語化できなくてもいい気がします。
マインド(頭)ではなく、ハートで感じている感覚に近いのかも。
言葉より先に“はっ”と胸がときめくような…」
この返信を考えながら、私はお寺で生まれ育ち、“はっ”とするような気持ちが次第に”日常の風景”として当たり前になり、深く味わう前に通り過ぎてしまっていることに気づかされました。
子どもの頃から見慣れた本堂に差し込む光も、イチョウの色合いの変化も、鐘の音も、気づけば「あって当然」のものとして受け取っていたのかもしれません。
ゆっくり眺めれば胸がふっと震えるような場面なのに、慣れによって、その“はっ”という感覚を自ら手放していたようにも思います。
その後に境内をゆっくりと歩いていてみると、理由もなく胸がふっと動く瞬間がありました。
境内にあるお地蔵さんのあたたかな表情です。
それは“感情”というより、もっと手前にあるものです。
たとえば、
朝の光が本堂に差し込んだとき。
イチョウの木の枝先から葉っぱが飛んだとき。
季節の匂いに気づいた瞬間。
その一瞬に、「懐かしい」とか「美しい」とか、そういう言葉をまだ選んでいない、ただ“胸が動く”だけの時間があります。
もしかすると、お寺はそういう“言葉になる前の感覚”を受け止めやすい場所なのかもしれません。
そしてその感覚は、上手に説明できなくてもいい。
説明しようとした途端に、どこか遠くに行ってしまうこともあります。
言葉にはならないけれど確かにそこにある“はっ”という揺らぎ。
それを感じてくださる方がいることが、とてもうれしく思います。
今日もまた、境内のどこかで小さな「はっ」が起きているのかもしれません。


