ソーシャル・キャピタルからみるキサーゴータミーの説話

山々を見ると、ようやく紅葉の兆しが見えてきています。温泉で有名な鳴子や秋保などは今が見頃だそうです。

今回は、ソーシャル・キャピタルからみるキサーゴータミーの説話を解説していきたいと思います。(説話については多少の私的な表現を追加しております。参考 『ダンマパダ・アッタカター』)

キサーゴータミーの説話

時代は今からおよそ2500年前のインド、お釈迦さまが生きていた時のこと。

キサーゴータミーという女性は、はじめて授かり、生まれた子どもを大切に育てていました。しかし、子どもは病気になり、亡くなってしまいます。亡くなったことを受け入れることは出来ず、冷たくなった我が子を抱きかかえ、なんとかしようとお釈迦さまのもとを尋ねます。

すると、お釈迦さまは「どこかの家からケシの実をもらって来なさい」と言いました。当時、ケシの実はそれほど希少なものではなく、どこにでもあったようです。続けて、お釈迦さまは「まだ1人も亡くなった人を出したことのない家からもらって来なさい」と言いました。

キサーゴータミーは我が子を思い、町中を駆け回り、「ケシの実をください」、二言目には「このお宅からまだ亡くなられた人はいませんよね」と尋ねます。しかし、「去年、母が亡くなってね」、「先月、弟を亡くしました」、「私も以前に子どもを亡くしたよ」・・・。

そして、町中いくら回っても、どこの家も親しい人を亡くしていることに次第に気づいていくのです。とても悲しく、辛いことですが、1軒、また1軒尋ねるごとに我が子の「死」を受容していったのです。

ソーシャル・キャピタルの視座から

キサーゴータミーが町中の家をこういう理由で訪ねていることを伝えているとなると、一般的には「それはとても悲しいね」、「私も子ども亡くしたことがあってね」、「なんでも頼りにしていいからね」など、共感や慰めの言葉が返ってくるように思います。ここではグリーフケアの一面も大きくある一方で、その寄り添いの会話の中から「信頼」関係が芽生えるのではと推測します。またキサーゴータミーがどのように町のコミュニティと関わっていたのかは把握できてはいませんが、町全体の家、いわゆる人とのつながり(ネットワーク、私的財)が生まれたことはソーシャル・キャピタルの醸成に寄与していると言えるのではないでしょうか。

このように説明すると、少し冷たい印象を受けますが、キサーゴータミーは「死」の受容はもちろん、人とのつながりの中に生きていることを自覚し、そのつながりを大切に生きていったのではないでしょうか。

 

ソーシャル・キャピタル#1

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