たんぽぽの布施

6月に入り、上半期最後の月になりました。振り返ると、この「(仮)副住職の雑記」も不定期更新で、仮に見ていただいている方がいらしゃるのであれば、更新日を定めなければと思っています。

ということで、これからは月2回、1日と15日に更新することに決めました。よろしくお願いいたします(精進します)。

 

 

そして、今回は「布施」について、長男のエピソードとともにお話したいと思います。

 

「布施」

と聞くと、お金が包んである下の画像を頭に浮かべる方が多いと思います。

 

もちろんこれも布施に含まれるのですが、それだけではないのです。布施には3つあります。

財施(ざいせ)・・・お金や物を与えること。

法施(ほうせ)・・・仏教の教えやお釈迦様の教えを与えること。

無畏施(むいせ)・・安心を与えること。

どれも大切な行いの1つです。無畏施は誰しもが無意識的にやっていることだと思います。友人の相談を親身に聞いたり、ただ横にいてあげたりと安心を知らず知らずに与えていることでしょう。それも布施なのです。

この3つの「布施」で大切になってくるものがあります。それは「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」という考え方です。

施す(与える)人、施される(与えられる)人、そして、その2者を繋ぐ物や行いが全て清浄でなければならないということです。つまり、「こんなにやってあげたのに!」、「これしかないのか!」といった余計な計らいを捨てることです。

それは日常生活でも等しく言えるのではないでしょうか。誰かに親切にした時に「ありがとう」などの感謝の言葉や態度を感じないと「なんなんだあいつ!」や「普通はありがとうだろ!」といった自分の価値基準から相手に見返りを求めてしまう。

仏教では、見返りや期待を除いたところ、あるいは距離を置いたところに本来の布施が現成すると思うのです。

 

 

私の長男が小学1年生の時のお話です。

母が下校時間になっても帰ってこない長男を心配していました。すると、玄関から「これあんだの息子のだすっぺ〜?(これあなたの息子のだよね?)」と近所のおばちゃんが長男の教科書やノート、筆箱を持って来ました。

母は事故に遭ったのではないかと血相を変え、家を飛び出しました。通学路を探しに行くと、家に向かって歩いている長男の姿がありました。登校した時と何も変わらぬ見た目をしているのです。

母は「何かあったの!?」と心配そうに尋ねると、長男は背を向けランドセルを見せました。その中には、母のために摘み取った、たくさんのたんぽぽの花がありました。

今では、長男にこの話について聞くと覚えていないようです。ですので、あくまで推測でしかありませんが、小学1年生の長男が見返りを求めるとはほど遠い、母へのとても素直なたんぽぽの布施だったのではないかと思っています。

また、布施とは関係ないですが、この話にもう1つ思うことがあるのですが、

大人が思う教科書やノートが子どもにとって、どのくらいの価値があるのかは計ることができないのだろうなと感じました。長男は毎日使う教科書よりも、母の笑顔を想像し、たんぽぽの方が価値があると判断したことでしょう。

 

今回、「布施」から飛躍してしまいましたが、今後も雑多な内容で失礼します!