祖母から継ぐ慈悲心

敬老の日、母の日、父の日、そして祖母や両親の誕生日。

ふと気づくと、私は定期的に「今年は何を贈ろうか」と考えています。

これは去年渡したなぁ。
これは使わなそうだなぁ。
これは少し高すぎるなぁ。
かといって、あまりにも安すぎるのもなぁ。

そんなふうに、頭に浮かんでは消え、また浮かんでは消え、なかなか決まらない時間を過ごすことがあります。

人に贈るプレゼントを考える時間は、私はとても好きです。

相手の顔を思い浮かべながら、「これなら喜んでくれるかな」「これは似合うかな」と考える時間には、どこか温かいものがあります。

けれど、敬老の日、母の日、父の日、誕生日と続いていくと、正直なところ「プレゼントを考える機会が多いなぁ」と、薄々感じることもあります。

そんな時、母から祖母の話を聞きました。

それは、母がまだ小学生か中学生だった頃のことです。

母の実家は、決して裕福な暮らしではなかったそうです。3人の子どもを育てるために、祖父と祖母は牛を飼い、鶏を飼い、商店を始め、朝から晩まで一生懸命に働いていました。

祖母は役所にも勤めていたそうですが、田舎の役所ということもあり、暮らし向きが大きく変わるわけではありません。家族みんなで質素に暮らしながら、日々を支えていたのだと思います。

そんな祖母は、役所の慰労会や送別会があると、そこで出された立派なお弁当を、自分では食べずに家へ持ち帰っていたそうです。

いつもは食べることのないようなお弁当。

祖母はそれを、1人で味わうのではなく、3人の子どもたちへのお土産にしていたのです。

「せっかくの会なのだから、その場で食べればいいのに」

そう思う人もいるかもしれません。

けれど、母はそのお弁当の中に、祖母の深い愛情を感じたそうです。

自分が食べたい気持ちよりも、子どもたちに食べさせてあげたい。
自分が喜ぶことよりも、子どもたちの喜ぶ顔を見たい。

そこには、言葉にはならないけれど、確かな母の愛がありました。

その話を聞いた時、私は胸が温かくなりました。

祖母は、特別なことをしているつもりはなかったのかもしれません。ただ目の前の子どもたちを思い、今できることをしていたのだと思います。

でも、その小さな行いの中に、仏教でいう「慈悲」の心があるように感じました。

慈悲とは、誰かを大切に思い、その人の苦しみが少しでも和らぐように願う心です。そして、その人が少しでも喜び、安心できるようにと願う心でもあります。

祖母が持ち帰ったお弁当は、単なる食べ物ではありませんでした。

それは、子どもを思う温かな気持ちであり、質素な暮らしの中でも失われることのなかった愛情そのものだったのだと思います。

そして、その慈しみの中で、母は育てられました。

きっと母もまた、祖母から受け取った愛情を、知らず知らずのうちに私たちへ注いでくれていたのだと思います。

そう考えると、私が今、敬老の日や母の日、父の日、誕生日に「何を贈ろうか」と考えている時間も、ただ物を選んでいる時間ではないのかもしれません。

相手を思う時間。
喜ぶ顔を想像する時間。
これまで受け取ってきたものに、少しでも感謝を返そうとする時間。

それは、祖母から母へ、母から私へと受け継がれてきた慈悲の心に、静かにつながっているように感じます。

高価なものでなくても、立派なものでなくてもいいのだと思います。

大切なのは、その人を思う心。

「ありがとう」の気持ちを、どのように形にして届けるか。

祖母が一つのお弁当に込めたような、ささやかだけれど温かな思いを、私も日々の中で大切にしていきたいと思います。

そして、いただいてきた慈悲の心を、今度は自分の周りの人たちへ、少しずつ手渡していけたらと思います。