この本読もっかな。#3

満福寺の桜が満開になりました!お近くに寄りましたら、お散歩がてら花見にいらしてください。
『目的への抵抗』國分功一郎
先日、先輩のお坊さんの家に泊まらせてもらいました。その部屋の本棚を覗くと『
』という題目だけでは何もわからない本と目が合った気がしました。本を手に取ると、先輩がこの本について簡単に説明してくれました。
私は相槌を3分くらいした後、何も理解していないことに気付きました。一方で、ただ胸の奥ではそわそわしていることにも気付き、
その日の帰りに書店に入ると、頭の中で本の題目は抜け落ち、國分先生の名前だけが残っていました。撫でるように本棚を指差しながら、探すと発見。
しかし、それは記憶の片隅にもなかった『目的への抵抗』という本でした。
ぱらぱらと読んでみると、あの時と同じく胸の奥がそわそわしました。
まず、本書は講演を基本としていて、表現も端的でとても読みやすく、わかりやすいです。第一部では、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの主張を挙げ、コロナ禍そして、民主主義について論じています。
そこで語られている1つは、「死者の権利」です。アガンベンはコロナ禍では死者が葬儀も行われず、埋葬される現実について指摘しています。感染拡大予防という面では仕方ないことではありますが、一方で「生存以外いかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか」という問いを社会、あるいはその事実に対して沈黙している教会に投げかけています。さらに國分先生はその主張から政治に言及します。
死んだ人間に然るべき敬意を払わない社会においては、生きている人間たちの関係もだんだんとおかしくなっていくのではないでしょうか。つまり、倫理がおかしくなっていくのではないでしょうか。死んだ者たちへの敬意の喪失は、歴史への畏怖の喪失へとつながり、これまでに先人たちが積み上げてきた価値への無関心へとつながるのではないでしょうか。そうなってしまった時、果たして政治など可能でしょうか。 これまでに人間が築きあげてきた価値への敬意なくして政治など可能でしょうか。そこに残るのは、「今」しかない、ペラッペラの単なる人間管理だけではないでしょうか。まさしく、「倫理的そして政治的な諸々の帰結について問うこと」が求められていると言わねばなりません。
『目的への抵抗』 國分功一郎 p.42
ここで私のiPhoneのメモ機能に残されていた出典先も不明な引用をさせていただきます。
死者たちの声に耳を傾け、死者たちとともに歩むことができなければ、生者の荒廃はとどまることを知らない。
引用 不明
重なる部分が多くある言葉が残されていました。引用元が分かり次第、記載いたします。
ただ、合わせて注意も必要になってきます。「生存することよりも価値のあるもの」と表現すると、この目的のためなら「死」を正当化(強制)するような歴史もありました。そこは全力で抵抗する必要があります。
「コロナ禍では死者が葬儀も行われず、埋葬される」言い換えれば、「死者が葬儀の権利をもたない」。社会への問いとも言えるアガンベンの主張は世間から批判されました。(医療ひっ迫の観点、感染拡大防止の観点など)
本書ではソクラテスの一節を引用しながら、哲学者としての役割とアガンベンの思いを語っています。
哲学者というのは社会(ポリス)にとってチクリと刺してくる虻のような存在であり、チクリと刺すことによって人々を目覚めさせる役割を担っているというわけです。 アガンベンはまさしくこの役割を果たしているのだとは言えないでしょうか。考えることにつきまとう危険は人々を恐れさせますし、先に述べた通り、アガンベンの思想が隣合わせている危険に我々は敏感であるべきです。けれども、誰かがその危険と隣合わせのところでものを考えて、問いかけなければならないということもまた事実ではないでしょうか。
本書 pp.46-47
大きな事象で見えない、あるいは見落としてしまうものを拾い上げ、問いとして投げかけることの大切さに気付かされました。
またここでいうコロナ禍で移動制限・移動自粛について、目的と手段というフレームで語られています。ある目的を設定することによって、目的までの手段が正当化されます。
たとえば
・「戦争を終わらせるため」と言って爆撃を正当化する
・「社会を豊かにするため」と言って労働者を酷使する
・「子どもの将来のため」と言って教育的暴力が容認される
移動の自由があるにもかかわらず、ある目的のために移動の制限が正当化されてしまいます。それがコロナ禍でした。これがアガンベンの投げかけた問いです。この問いには確かに批判があるものの、この権利の制限(例外状態)に慣れていないかという投げかけでもあります。「目的が正しい」とされると、そこに至るまでの手段に疑問を持つことが難しくなることへの警鐘です。
手放した権利を戻すことは難しいと本書であるように、大きな目的を前にした時にその手段を丁寧に考えていく必要性を感じました。
『少年キム』 無目的の魅力
本書の第二部で紹介されている本で、イギリスの作家ラドヤード・キプリング(1865〜1936)に『少年キム』という植民地文学の傑作と呼ばれる作品を紹介しています。
この本に注目したのが哲学者ハンナ・アーレントです。
『少年キム』について簡単に紹介すると、物語はイギリス人の孤児キム少年が、インドの地を旅しながら成長していく姿を描いています。彼は見た目がインド人のようで、現地の文化にもなじんでいますが、実は英国人の血を引いています。キムは放浪中にチベット僧と出会い、一緒に“聖なる川”を探す旅に出ます。その途中で、イギリスの諜報機関にスカウトされ、スパイとしての訓練を受けることになります。物語は、キムが修行、冒険、内面的な成長を経て、「自分は何者か」という問いに向き合う姿を描いています。
この物語について、アーレントが注目したものはキムが「ゲームのためにゲーム」をすること。例えばチェスのためにチェス。ランニングのためにランニング。今まさに行っている行為に没入していること。
これが仏教や禅に共通するものがあるのではないかと思うのです。
曹洞宗の宗旨でもある「只管打坐」(ただただ坐る)にしても、「何かを得よう」とする心は、すでに迷い(煩悩)であって、「悟りたい」という意志さえ捨てて、ただ坐ることの教え。
目的(悟り)を持つことで、かえって本質から遠ざかってしまう。目的を捨てたとき、坐るという行為が本来の深さと魅力を帯びてくるような気がします。私は坐るとのんびりできていいなと思っています。
ここでいう少年キムと坐禅の無目的なものは「空っぽ」なのではなく、満ちているからこそ、もう目的を必要としない。それ自体が楽しいに類するポジティブな行為ということ。
雪だるま作ろう(目的)と思った時に、雪だまを転がし(手段)始めて、だんだん大きくなっていくことが楽しくなってしまったような感覚でしょうか。手段そのものが楽しくなっていく。
本書の『目的への抵抗』を取り留めなく思うがままに書いてしまいました。
単なる知識の集積ではなく、読むことで世界の見え方が変わり、思考することに誘ってくれます。時には難解で、時には抽象的すぎて頭を抱えることもありますが、それでも「考える」という営みの素晴らしさを教えてくれる一冊です。