目の前のことを

今年も12月入り、さすがに温かい日と寒い日が入り混じることもなくなり、初雪がいつ降ってもおかしくない寒さになりました。

永平寺の修行から

グッと寒くなると、私は曹洞宗の大本山永平寺での修行を思い出します。それは7年前に永平寺へ上山する時、雪がしんしんと降る中のことです。永平寺の山門に向かう雪が積もった道で、私と同じく修行に来た修行僧が前に2人歩いています。2人が歩いたであろう足跡を私も歩幅をピッタリと合わせ、山門へ進みます。しかし、それでも草履に付いてしまう雪が自分の体温で溶け出し、足の体温は奪われ、足先の感覚を失っていきました。それでも前へと進み、山門に到着すると、凍てつく寒さの中、ずっと立ち続けます。何をするわけでもなく、入ることを許可されるまで待つ。振り返ると、この時間が修行道場に入る覚悟をより強固なものにしたように思います。

 

そこから、入門が許可され、永平寺での修行が始まります。

 

はじめは自然に目をやり、雰囲気を味わう余裕もないほど、精一杯でした。例えば、「明日行う役割はこれでいいのだろうか。もう一度確認した方がいいな」など常に考え過ぎ、今行っている掃除を疎かにしてしまうこともありました。少し経つと、「今頃、家族はなにをしているのか」「友達はなにをしているのか」と思いを巡らし、人の話を聞いていないこともありました。

ある日、物思いにふけながら掃除をしていると、それを見兼ねた先輩の僧侶から「目の前のことを丁寧にやりなさい」と指導を受けました。正直、最初はムカッとしましたが、落ち着いてその言葉を振り返ると、私のこれまでの修行の日々を変えさせてくれるものでした。

今年は大本山總持寺ご開山瑩山禅師の700回大遠忌本法要の年になりますが、その瑩山禅師がこのような言葉を残されました。

茶(さ)に逢(おう)ては茶を喫(きっ)し、飯(はん)に逢ては飯を喫す

   『伝光録』

※()内ふりがな筆者加筆

お茶が出たら、お茶を飲む。ご飯が出たら、ご飯を食べる。何の事は無いと思いますが、実は難しいことなのです。いただいたお茶に対して、「ぬるいな」や「ジュースの方が良かったな」など、余計なことを考えてしまうことがあります。しかし、目の前のお茶をいただけることに感謝しながら、味わうことを気づかせてくれる言葉です。

同様にいまここを掃除するのであれば「ただ掃除を行う」、人の話を聞くのであれば「ただ話を聞く」。先輩の和尚さんの言葉から日々の生活を疎かにしていることに気づき、修行を丁寧に行じていくようになりました。「今、見えないものに悩まされることなく、今できることを行う」、これは修行を終えた今も変わることはありません。

瑩山禅師は未来について考えることを止めるのではなく、数多の「今」の積み重ねが未来に繋がっており、まず「今」を精進することが大切であると説いているのだと思います。修行から変わらぬこの思い、引き続き「今」を丁寧に過ごして参ります。

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