行為に没入

先日、3歳の娘に「幸せなときはどんなとき?」という問いを投げかけました。娘は「ブロックで遊んでるとき。幼稚園で遊んでるとき。ソファでごろんしているとき。お菓子食べてるとき。お風呂に入ってるとき。・・・」。ずっーとお話してくれました。
そのとき、娘の話を聞きながら、谷川俊太郎さんの詩をぼやっと思い出しました。
長続きする幸せは平凡な幸せだ、言葉を代えるとドラマチックな幸せは長続きしないからこそ濃い。幸せが毎日の暮らしの低音部を担っていて、幸せだっていうことにも気づかないくらいの、BGMみたいな幸せが、一番確実な幸せかもしれない。
谷川俊太郎『幸せについて』
何気なく過ごしているように思えていた日々の連続的な流れを切り取り、列挙し、幸せと感じる娘に驚きました。一方で、自分がその問いの回答をしていたらと考えると「おいしいものを食べたとき。旅行に行ったとき。」など、娘の回答に反して、恥ずかしいアンサーをしていたなと面目ない限りです。
写経会
10月13日に写経会を行いました。参加者は大人2名、子ども4名の計6名。自分が写経するセットを準備し、簡単に写経の説明をしたら、ふわっと写経の時間が始まります。
1時間だけの写経の時間。参加者の方がたと一緒に私も『摩訶般若波羅蜜多心経』を写経するため、筆をとります。丁寧に丁寧にと思いながら、書写していると、あっという間にもう終了時間の3分前でした。気づくと50分の時間が流れていました。
今、振り返ると時間を忘れて、没入できる行為と没入できる環境があったのだと気付かされました。日々の生活でも、2つ同時あるいは、3つ同時に作業する方が効率的・合理的なことがあると思います。
私は家で映画を観ながら、スマホを見たり、読書をしながら、テレビをつけていたりすることがあります。どれも集中できていないことが大半です。
写経をはじめ、映画を観るときは映画に!読書は読書!といったように、その1つの行為に没入すること、さらには没入できる環境をととのえることが大切ではないかなと写経を通して、感じました。
冒頭でお話した3歳の娘も「幸せなとき」について、常に何か1つのことを挙げていました。何か重なるものを感じつつ、自身の日々の生活につなげたいと思います。
結果的に娘の成長報告と写経会の宣伝になったことをお詫び申し上げます。